lycoras

恋愛、受験、トレンド、はたまた自分の体験談などを書いています。毎日投稿しているのでよろしければゆっくりと読んでいってください

自己肯定感が低いのは治せる

この記事を開く人は自己肯定感の低い人がほとんどでしょう。

 誰かに嫌われて落ち込み、誰かに軽く怒られたくらいでずっと引きずり、もしかしたら自分のことを好いてくる人を気持ち悪く思う人もいるかもしれません(俗にいう蛙化症候群)

なぜこんなわかったような口なのかというと僕は自己肯定感が著しく低い人だからです。僕は蛙化症候群です。何に負けたのかわからない人生を送ってきました。

でもそんなぼくだからこそ、自己肯定感が低い人の気持ちがよくわかります。

誰も認めてくれないんですね。ならば僕は自信をもって言いましょう。でかい声で言ってやりましょう

 

あなたは素晴らしい人間だ!!

 

これはもうまぎれもない事実です。

この記事では、それをあなた自身で感じれる方法を書いていきます。

れっつ、自己嫌悪脱却

 

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 目次:

 

 

 

あなたの価値は変わらない

これは僕が僕の親友に言われて救われた言葉です。

高校生になり、環境が変わった僕は様々な不幸が重なり友人関係がうまくいかなくて周りから散々に言われました。

僕は帰り道親友に言いました。

「俺はお前がいるから他には何もいらねーわ」

確かに、昔も今も親友はお互いにとって水のような存在です。親友がいなければ僕は五日と持たずに死んでしまいます(笑)

しかし、人は水の中では呼吸ができないのです。

 それをよく知っている親友は僕にこう言ってくれました

 

「周りに何を言われてもお前の価値は変わらないんだから、お前の価値に気づく人が出てくるよ」

 

 いわれてみればその通りです。

僕が絵がうまかったとして、それを第三者が下手くそ!といったところで絵の値段が変わることはあっても価値は変わらない。

その時僕は自分が思っていた自分の価値が本当の価値でなく他の人が言った価値であったことに気づきました。

自分を低く評価している人は、他人が言った価値を鵜呑みしているだけで本来はそんなはずありません。 

 まずは、自分が思っている自分が他人から言われたものではないか確認してみてください。それは偽りです。

 

 

 

 誰かを救うことが自分を救うことになる

これも僕自身がやって大きな効果を実感したことです。

ここで注意してほしいのが抽象的なものでなく具体的に自分がすることを決める。ことです。

例えば、相手の話を本気で聞くようにするや、積極的に相手を褒めるなどで構いません。(尤も前者はかなり難しいです)

僕の場合は困っていたら徹底的に助けるというのをやっていました。

これは長期的に見たとき一番大きな変化があることです。

情けは人のためならずという言葉の通り、自分がしたよい行いは必ず自分のもとへ帰ってきます。(時間はかかるかもしれませんが)

見返りが前提の善なんて偽善だと思う人がいるかもしれませんが、あなたに今必要なのはその偽善です。

偽善であなたが少しでも救われるなら、精いっぱい偽善をするべきです。

偽善万歳!!!

 

 

本当の自分を実感する方法

さて、今までは精神的なことを言いましたが今から説明することはとても実用性のあることです。

まず、紙とセロハンテープを用意してください。

そこにこう書いてください

「本当の私はいい人である」

 

書きましたか?

では次は、”誰かを救うことが自分を救うことになる”で考えた自分がすることを書きます。

「私は○○をして他の人を幸せにしてる」

 

OK!

次はそれを朝目に入るところにくっつけておいてください。

そして朝それが目に入るたびに音読してみましょう。

 

これだけ!!

これだけでほとんどの人は自己肯定感が高くなります!

これをするには上に書いた2つのことを理解するのも重要なのでしっかりと呼んだうえで実行してみてください。1ッカ月後には本当の自分に会えるようになりますよ。

 

 

 

最後に

これからこの記事には他にも自己肯定感を固める方法を追加していくので、この記事に書いていることを実行してちょっとでも変化があればまたこの記事に来てみてください。

それでは!あなたの人生がもっと良くなることを祈っています。

 

 

ボランティアはただの自己満足で意味はない

僕は大学でボランティアサークルに入り、子どもたちと1週間ほどキャンプをするボランティアは定期的にしています。

 

簡単に言えば、修学旅行の時の先生みたいなボランティアをしています。

 

いっつもこんな説明を他の人にするのですがたぶん皆さんが予想している50倍はきついです(笑)

 

この前のキャンプでは先輩が僕の前で大号泣していました。もちろん子どもたちがいないところでね。

 

もう何がきついかって全部ですよね。子どもたちが喧嘩したり突然泣き出したり、はたまたいきなり危ない方に走り出したり…。

誇張なしで子どもたちが寝ている間以外は全く休憩なしです。

 

そうなってくるとだんだん精神がやられてくるんですね。

毎回ボランティアに行くたびに「次こそは絶対行かねーぞ!」って思います(笑)

 

でも子どもたちがべたーってくっついてきたり、目標を達成して喜んでいたりするとやっぱりまた来ようかなーって思ったりして。

後日自分じゃあどうにもならなかったことをベテランの先輩に聞くと様々な後悔や改善点が見えてくるんですね。

 

そしたら、次は~って考えてしまって、回ってきた出欠確認に出欠の文字を探してしまうんです。

 

何が言いたいかというと僕がしているボランティアは完全なる自己満足だということ。

 

いや、本当に誰かのためだと思ってやっている人もいるかもしてない。

ただ、そのような人ばかりではなく僕のように自己満足で、ただのエゴイズムでボランティアをしている人もいるって話でした。

 

人はもっと差別をするべきである理由

突然ですが僕は「ズッ友」というやつが嫌いです。いや、正しくは軽々しくこの言葉を使うのが嫌いです。

これは恐らく僕の育ちが原因でしょう。

僕は10年ほど前に病気仲の良かった友人を亡くしました。しかし月日は残酷なものでもう友の声も顔も鮮明に思い出すことはできなくなりました。

 

さて、

「やめておけ お前らにゃおれは殺せねェよ 人はいつ死ぬと思う・・?」
「心臓を銃で撃ち抜かれた時・・・違う」
「不治の病に侵された時・・・違う」
「猛毒のキノコのスープを飲んだ時・・・違う!!」
「・・・人に忘れられた時さ」

とい言葉をご存じでしょうか。

 

ワンピースのセリフのようです。

僕は漫画を読まない人間なのでワンピースも知らないのですがこのセリフを見たときに自分の中でしっくりくるものがありました。

 

「友は病気で亡くなったんじゃない、僕が殺したんだ」

 

つまり、人に忘れられたときに死ぬのなら、友を忘れた僕は友を殺したことになる。

 

それ以来僕は永遠というものが嫌いでした。特に人の記憶、感情なんてたかが10年で消えてしまう。儚いものなんです。

 

なので「ズッ友」なんて永遠を軽々しく約束するこの言葉が大っ嫌いでした。

 

しかし、永遠がないとすれば果たしていつまで「友」が続くのでしょうか。

これは非常に貴重なものです。「ズッ友」と最初から永遠を約束する人にはたどり着けない思考ですから。

 

そんなことを考えていたら当たり前ですが、人によって「友達期間予想」が違うことに気づきました。

 

僕には親友と呼べる人がいるのですがこいつとは絶縁でもしない限り続くでしょう。

しかし、隣にいるこいつは卒業したら1年も経たずに関係がなくなってしまう。

 

だったら、1年で関係が終わってしまう人よりも親友を大切にしたい。

ここで僕の中に「差別」が生まれました。

 

これはとても大切なことだと思います。

 

これを読んでくれているあなたも明日、学校に、会社に行った時に差別してみてください。自分にとってこの人がどれだけ大切な人なのか。

 

そしてより大切な人との時間を大切にしてください。その人に明日も会えるかはわからないから。

虐待とはなにか

今日は朝から夕方まで大学の講義があった。しかしもう今日は最後の講義以外はいかないことにした。

 

知ってしまったからだ。

 

「虐待を受けている児童に対してのメンタルケアで一番難しいのは虐待を受けていることを認めさせること」

 

僕は脳が理解すると同時に考えてしまった。

 

言葉の意味を自分に当てはめて、深く考えた。

 

はたして僕は虐待を受けていたのだろうか。

 

 

 

「常識とは18までに培った偏見である」

 

 

 

誰だか忘れてしまったが偉い人がこう言っていた気がする。

 

それならばあと少しで齢19になる僕は常識を完成させる前の真実の目で今こそ見つめなおしたい。

 

 

 

 

そもそもこの件についての始まりはもっと前の話からであった。

 

 

山奥でのボランティア活動が終わった後の打ち上げで、ある話題が場を制した。

 

「トロッコ問題」

 

多くの人が知っていて古臭いものであるがしばらくの間デジタルから隔離されていた僕らにはお似合いだった。

 

知らない人のために説明しておくと、

線路上を走るトロッコが制御不能になり、そのまま進むと5人の従業員が死ぬ、ただしあなたがレバーでトロッコの分岐点を切り替えると違う分岐点にいる1人の従業員が死ぬ。あなたは分岐点を切り替えるか否か。

という問題である。

 

だんだんと焼き肉店の熱気にやられてきた僕らは5人の従業員と1人の従業員を別の人物に当てはめていた。

 

例えば、「母」と「婚約者」。

 

これについて僕は迷う必要がなかったし、これを読んでくれている人も僕がどちらを選ぶかなんてもうすでに明かしている。

 

しかし僕がそちらを選んだ理由は愛ゆえだった、愛ゆえその人がそれを望んでいると思ったのだ。

 

というのは、今思えばきれいごとだったのかもしれない。

 

ただ単にあの人のほうが好きだったもしくはその人のほうが嫌いだった。

 

それだけの話なのかもしれない。

 

そんなことはどうでもよくて、火を見るよりあやふやだけど、僕の瞼に焼き付けられているのは先輩の言葉だった。

 

先輩は指につけた指輪をきらめかせながら余裕の笑みで言った。

 

「婚約者かな、親嫌いだし」

 

僕は生まれて初めて自分の親を否定している人を見つけた。

 

というかそれはありなのかと、じゃんけんで後出しをされたような気分に陥った。

 

あれ現実でやってみ、相手がものすごい何とも言えない顔になるから。

 

続けて彼女は何でもないような顔をして僕に言った。

 

「君のそれはあれだね、愛ゆえだね。私とは違うよ」

 

見事に見抜かされて僕は安心した。

 

それなのに彼女はまるでそれが当たり前であるかのように自信に満ちた顔をしていて、ちょっと悔しかったし、うらやましかった。

 

だから僕はそれ以来自分が自分のお父さんとお母さん、いや彼と彼女のことを嫌っている可能性を常に胸に秘めていた。

 

 

ここまで読ませておいて非常に恐縮だが、僕は親から暴力を受けていたわけでも、愛情を注いでもらえなかったわけでもない。

 

しかし、

 

「虐待を受けている児童に対してのメンタルケアで一番難しいのは虐待を受けていることを認めさせること」

 

この言葉は非常にずるく、狡猾で、僕にどちらの「味方」をすればいいのかわからなくさせる。

 

いや、強いて言えば物の「見方」の話だ。

 

僕はいままであまりにも妄信的な見方で彼女と彼のことを見つめていたのかもしれない。

 

ふと思い出すのは真夏、汗だくで帰ってきた僕に彼女は笑顔で麦茶を差し出してくれた。

 

人生で一番うまかった飲み物は間違いなくその麦茶だった。

 

その麦茶にはありったけの愛が詰まっていた。

 

 

 

脳裏にちらつくのは秋、駐車場、電灯、車、冷たい風、コンビニ。

 

その時僕は彼女のことが一番わからなかった。

 

 

 

彼との思い出は何だっただろうか。これといったものはないが家で二人きりになったとき彼は僕に毎回、一緒に買い物に行くことを強要した。

 

僕がいつも渋るので彼は余計ぶっきらぼうな言い方で強要してくる。

 

非常にめんどうくさかったが日常的に彼の不器用な愛を感じる瞬間だった。

 

 

 

過敏性腸症候群と受診されたとき彼女か彼はおそらく原因が彼にあることに気づいただろうか。

 

当時の僕は病気になるほどのストレスがどこから来ているのかよくわからなかったが、いまならわかる。

 

彼は怒りっぽい人だった。要領の悪かった幼い僕とは最悪の相性であった。

 

 

愛されていなかったわけじゃない、常に愛されていたわけじゃない。

 

こんなの当たり前だろうか?

 

僕は、はたして真実の目で事実を見ることができているだろうか

 

ニュースキャスターがいう虐待をうけていなかったことは確かである。

愛情を注いでもらえたのは事実である。

 

僕には、僕がわからない。

 

 

先輩をうらやましく思う。あんな風に自分を知るのは僕には無理だろう。

 

いや、彼女は諦めているのかもしれない。自分が親を愛するのを。

 

調子に乗るので本人には言わないが、僕はその先輩のことが結構好きだ。といっても人間的な意味で、

 

先輩は僕と同じ匂いがする。

 

なのに、些細なことで僕ができないことをやってのける。

 

簡単に言えば、僕は先輩にあこがれているのかもしれない。

 

憧れの先輩が親のことが嫌いだというから僕もそれをまねているだけなのかもしれない。

 

それが一番いい終わり方だろう。

 

 

僕は、先輩にあこがれて、親のことを嫌っている風にしていた。

 

ただそれだけの話だった。

 

草々不一。

大学の授業はうるさい【理系国立大学】

あの蒸発した初心者ブロガーが! 満を期して(?)返ってきたッ!!

 

笑いあり、涙あり、の痛感ブログっ!

 

 

[lycoras]

 

 

全米が…鼻で笑った(予告風)

 

 

 

 

 

ということでお久しぶりです。lycorasです!

 

今これを読んでいる人は9.9999割がいやお前誰だよ思っていると思いますが、それでも言います。

 

 

ただいま!

 

 

さて、挨拶もここまでにして本題に入りましょう。

タイトルを見てわかると思いますが今回のネタは大学の授業についてです。

 

はれて今年の四月から僕も大学生になったわけですが、単刀直入に言いましょう!!

 

 

 

割と静かっ!!!

 

 

そうなんです。世間では大学生の学力低下だとか授業態度とかで騒がれていますが僕の大学は基本静かです。

 

ただこれはあくまで”基本”静かなだけでうるさい時もあります。その時の教授が厳しい人だったら大変ですね。

 

このまえ大教室で周りは静かなのにあるグループだけずっとおしゃべりをしていたら、教授が激おこで机BAN!をした後にてめぇらぁででけええ!!!!と発狂したことがありましたね。

 

ははは、あれは面白かった。

 

こういった事例があるものの基本は平和なもんです。

 

いやー、やっぱ大学生も捨てたもんじゃないわあー。

 

 

と、いうわけじゃあ断じてない。

 

騒がなくてもずっとスマホをいじっているやつ、寝ているやつは全体の1/3はいますね。

 

 しかも当たり前のことですが部隊が変われば事情も変わります。友達のインスタ見ているとどこの猿山かな?って動画が流れてきたりします。

 

まあ、大学に目的もなしに入ってきたらそんなものなのかもしれませんね

AO入試が最強のコスパである理由5選

こんにちは、僕は高校時代勉強が全くできず勉強しなくてもそこそこの所行けないかな…と思いAO入試を受験しました。

しかし受験が終わり振り返ってみればこの選択がベストだと思い、今回はそれを共有したいと思います。

 

 

 

1、早くに終わらせることができる

AO入試は早い人だと8月に受験を終わらせることができます。

4月に大学受験が始まったとすればなんと4カ月で人生のビックイベントを終わらせることができるのです。

しかし、人生において大切な時期なんだからじっくりと考えたほうがいいんじゃないの?と考える人も多いと思います。

ちょっとまってください。そう考える人もこの後の理由を読めばそれは不要であることに気づくはずです。

 

 

 

2、早い段階から自主的に行動(調べ)することになる

 

まず、高校3年の6月ごろにしっかりといろんな統計をみたり就職も含めて自分で考えたりする人はめちゃくちゃ少ないです。

先生から言われた内容を鵜呑みにするかとりあえず勉強という自ら地獄へ飛び込んでいく人しかいません。

しかし、AO入試は6月ごろからエントリーが始まるためその時期は半強制的にしっかりと調べることになります。

受験生の多くは10月ごろに大きく偏差値が伸びるので調べることを偏差値停滞期の6月ごろにしっかりとしていれば10月以降に時間をとることができ他の受験生より有利に立てるでしょう。

 簡単に言えばAOは期間が短い代わりに密度が濃いということです。

 

 

 

3、落ちたらそれはそれでオッケー

AO入試は8月から10月ごろに合格発表があるのですがもしそこで落ちてしまった場合でも僕はOKだと思います。

落ちてしまったら当然焦り今までより多く勉強することになるからです。

落ちることを誰よりも早く経験できることもまたメリットとなります。

 

 

 

 

4、合格したら自由な時間がめちゃくちゃ取れる

自分は国立大学にAO入試で合格したのですがその後は最高でした。部活もなく特に勉強をする必要もない(先生からの威圧はある)ので自分の好きなことをやりたい放題です。

僕の場合は地域活性化運動やいろんな場でのスピーチなどありがたいことに忙しい毎日を送ることができこの時期は一般受験の勉強しかできてない人間より圧倒的に密度の濃い生活を送ることができたと自負しています。

 

 

 

5、勉強する必要がない、人によっては対策をする必要もない

勉強が死ぬほど嫌いな人は多いと思います。そんな人でも否応なく勉強をしなければいけない時期が受験期、と世間では言われていますがAO入試で受験を乗り切ればそんなことはしなくていいんです。

また、大学に行きたい気持ちやスピーチ能力などが求められるため人によっては全く対策せずに合格することができます。僕は一回だけ面接練習をしただけで合格しました。

 

 

 

 

いかかでしょうか、5で人によっては対策する必要がないと書きましたが人前で話す機会が今までなかった人や文章力に自信がない人は当然ながら対策をしなければなりません。次はAO入試の対策について書いていきたいと思います。

 

それでは最後まで読んでくださりありがとうございました。

環境の大切さ【あなたの環境は大丈夫?】

今日久々に高校の先生から電話がありました。

 

曰く、高校の宣伝のために僕の高校経験談を書いてくれないかと

 

僕が在学していた高校では総合学科でいろんなコースがあったのですが僕は私立理系を目指すバカクラスから国立大学に合格した異例のケースなので特別成績がいいというわけではなかったのですが宣伝に使えそうと判断したのでしょう

 

ちょっとここでその先生との電話の内容をかき出したいと思います。

 

先生「久しぶり、元気にしてる??」

 

僕「ご無沙汰してます」

 

先生「お父さんにはすでに話してあるんだけどさあ、学校のパンフレットに○○君のこと載せたいんだけどいいかな?」

 

僕「それは僕が許可を出すだけでいいのですか?」

 

先生「え?え?」

 

僕「えっと。僕が広報に使っていいよっていうだけでいいのですか?」

 

先生「うーん、そうそう」

 

僕「では大丈夫ですよ」

 

先生「おっけー、それじゃあ物理の○○先生が担当だから○○先生に連絡しといて」

 

 

 

 

 

 

 

は?

 

その時に僕は思い出しました。

 

僕の高校って生徒より教員のほうが腐ってるんだった…。

 

まあ、その物理の先生は珍しくかなりいい先生でお世話になったので結局ひきうけることにしました。

 

300文字なら15分くらいで書けますしね。

 

しかし、それなら電話をしてきた先生は人間としての水準が低かったのかといえば違います。

 

 

そこが環境の怖いところです

 

僕の母校では生徒が学校に全力に協力するのは当たり前という考えが蔓延っています。

 

僕の親友を授業に参加すらさせずに一週間「裏切者」などの言葉で罵倒し続けるくらいにはね

 

その概念に長い間浸っていると今回の電話のように僕が無償でなんでもするという思うようになるのでしょう。

 

あなたは大丈夫ですか?

 

同じ居場所に居続けて特定の概念にとらわれていないですか??

 

そうかも、と思う方は自分の視野を広げてみてください。

 

といっても、今自分が所属しているところから抜けるとかそういったことでなくても大丈夫です。

 

僕のおすすめは休日に一人旅に出ることです。

 

自分が全く知らないところにいってみると意外と日本国内でも自分の知らない世界が広まっていますよ。

 

今回は以上です。最後まで読んでくださりありがとうございました!