人はもっと差別をするべきである理由
突然ですが僕は「ズッ友」というやつが嫌いです。いや、正しくは軽々しくこの言葉を使うのが嫌いです。
これは恐らく僕の育ちが原因でしょう。
僕は10年ほど前に病気仲の良かった友人を亡くしました。しかし月日は残酷なものでもう友の声も顔も鮮明に思い出すことはできなくなりました。
さて、
「やめておけ お前らにゃおれは殺せねェよ 人はいつ死ぬと思う・・?」
「心臓を銃で撃ち抜かれた時・・・違う」
「不治の病に侵された時・・・違う」
「猛毒のキノコのスープを飲んだ時・・・違う!!」
「・・・人に忘れられた時さ」
とい言葉をご存じでしょうか。
ワンピースのセリフのようです。
僕は漫画を読まない人間なのでワンピースも知らないのですがこのセリフを見たときに自分の中でしっくりくるものがありました。
「友は病気で亡くなったんじゃない、僕が殺したんだ」
つまり、人に忘れられたときに死ぬのなら、友を忘れた僕は友を殺したことになる。
それ以来僕は永遠というものが嫌いでした。特に人の記憶、感情なんてたかが10年で消えてしまう。儚いものなんです。
なので「ズッ友」なんて永遠を軽々しく約束するこの言葉が大っ嫌いでした。
しかし、永遠がないとすれば果たしていつまで「友」が続くのでしょうか。
これは非常に貴重なものです。「ズッ友」と最初から永遠を約束する人にはたどり着けない思考ですから。
そんなことを考えていたら当たり前ですが、人によって「友達期間予想」が違うことに気づきました。
僕には親友と呼べる人がいるのですがこいつとは絶縁でもしない限り続くでしょう。
しかし、隣にいるこいつは卒業したら1年も経たずに関係がなくなってしまう。
だったら、1年で関係が終わってしまう人よりも親友を大切にしたい。
ここで僕の中に「差別」が生まれました。
これはとても大切なことだと思います。
これを読んでくれているあなたも明日、学校に、会社に行った時に差別してみてください。自分にとってこの人がどれだけ大切な人なのか。
そしてより大切な人との時間を大切にしてください。その人に明日も会えるかはわからないから。